海南市エリア, 万葉故地
藤白坂は、有間皇子(ありまのみこ)が、斉明天皇四年(658)に謀反を起こそうとしたとの嫌疑をかけられて、逮捕され引き立てられて牟婁温湯(むろのゆ 現在の白浜温泉)へ向かう時に通りました。そして牟婁温湯で訊問を受けた後、この藤白坂で絞殺されました。御所の芝からは和歌の浦、雑賀崎、淡路島等が一望のもとに収められます。この風景を1350年ほど前に有間皇子も見たはずです。なお藤白坂への登り口(藤白神社から歩いて10分ほどのところ)に有間皇子のお墓と伝承されている地(椿の地蔵)があり、「家にあれば」の歌碑が建てられています。
藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも (大意)藤白のみ坂を越えようとして、白妙の衣の袖はぐっしより濡れてしまった。 |
(巻九、一六七五) |
黒牛潟潮干の浦を紅の 玉裳裾引き行くは誰が妻 (大意)黒牛潟の潮干の浦を、紅の美しい裳裾をひいて歩いていくのは、誰の思い人であろう。 |
(巻九、一六七二) |
黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも (大意)黒牛の海が紅に輝いている。(ももしきの)大宮人が漁をしているらしい。 |
(巻七、一二一八 藤原卿) |
紫の名高の浦の愛子地袖のみ触れて寝ずかなりなむ (大意)(紫の)名高の浦の真砂子(いとしい子・・愛子)の土に袖を触れるだけで、寝ることもなく終わるのだろうか。 |
(巻七、一三九二) |
紫の名高の浦の名告藻の磯に靡かむ時待つ我を (紫の)名高の浦のなのりそ(心に秘めた人)が磯(私)になびく時を待つ私だ。 |
(巻七、一三九六) |
古に妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも (大意)その昔、妻と二人で見た、(ぬばたまの)黒牛潟を、今一人で見ると寂しいことよ。 |
(巻九、一七九八 人麻呂歌集) |
紀伊の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに (大意)紀の国の名高の浦に寄せる波のように評判はとどろくよ。逢いもしないあの娘なのに。 |
(巻十一、二七三〇) |
紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを (大意)(紫の)名高の浦のなびき藻のように心は妻になびき寄ってしまったものを。 |
(巻十一、二七八〇) |
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見む (大意)磐白の浜の松の枝をグイと引き結んで無事を祈り、その願いがかなって命長らえたなら、またここに立ち帰って松よおまえを万感の思いをこめて見よう。 ※有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌 |
(巻二、一四一) |
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (大意)家にあれば器に盛る飯を、今は旅、それも捕らわれの旅にあるので、椎の葉に盛ることよ。 ※有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌 |
(巻二、一四二) |
藤白(ふじしろ 海南市)
藤白坂は、有間皇子(ありまのみこ)が、斉明天皇四年(658)に謀反を起こそうとしたとの嫌疑をかけられて、逮捕され引き立てられて牟婁温湯(むろのゆ 現在の白浜温泉)へ向かう時に通りました。そして牟婁温湯で訊問を受けた後、この藤白坂で絞殺されました。御所の芝からは和歌の浦、雑賀崎、淡路島等が一望のもとに収められます。この風景を1350年ほど前に有間皇子も見たはずです。なお藤白坂への登り口(藤白神社から歩いて10分ほどのところ)に有間皇子のお墓と伝承されている地(椿の地蔵)があり、「家にあれば」の歌碑が建てられています。
有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
大意磐白の浜の松の枝をグイと引き結んで無事を祈り、その願いがかなって命長らえたなら、またここに立ち帰って松よおまえを万感の思いをこめて見よう。
大意家にあれば器に盛る飯を、今は旅、それも捕らわれの旅にあるので、椎の葉に盛ることよ。
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