紀伊国分寺跡
国の華として紀の川流域の中ほど、旧那賀郡の高燥な地に営まれていました。発掘調査により七堂伽藍と2町(約220m)四方の寺域が確認されています。天平勝宝8年(756)那賀郡司日置氏が稲1万束を寄進しておりこの頃寺容が整ったと考えられています。
堂塔は瓦積み基壇上に興福寺式軒瓦を採用して建立され、巨大な七重塔がシンボルでした。元慶三年(879)落雷により全焼。その後、幾多の盛衰を経て江戸時代には根来寺の末寺となります。
跡地は現在史跡公園として整備され南側に国分寺の歴史が学べる紀の川市立歴史民俗資料館が建っています。(宗)国分寺は資料館の南に移転し法灯が受け継がれています。