橋本市エリア, 万葉故地
妻の社(つまのもり)の地を過ぎて紀の川筋をしばらく西下すると、万葉故地・大我野にさしかかります。現、橋本市西部の東家から市脇の辺りです。平安朝から戦国期に見える荘園名「相賀荘」に、その名を確認できます。
大和には聞こえ行かぬか大我野の 竹葉刈り敷き廬せりとは (大意)妻のいる大和へ聞こえていってくれないかなあ。大我野の竹の葉を刈り敷いて、私はわびしい仮寝をしていると。 ※大宝元年の紀伊国行幸の折の作です。行幸従駕の宿りでも、下級官人は竹の葉を刈り敷いてのわび寝であったのでしょう。旅寝の侘しさとそれ故に一層つのる大和恋しさが歌われています。 |
(巻九、一六七七) |
大我野(おおがの 橋本市東家~市脇) 妻の社(つまのもり)の地を過ぎて紀の川筋をしばらく西下しますと、万葉の大我野にさしかかります。現、橋本市西部の東家から市脇の辺りです。平安朝から戦国期に見える荘園名「相賀荘」に、その名を確認できます。
大宝元年辛丑の冬十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首
大意妻のいる大和へ聞こえていってくれないかなあ。大我野の竹の葉を刈り敷いて、私はわびしい仮寝をしていると。
これも大宝元年の紀伊国行幸の折の作です。行幸従駕の宿りでも、下級官人は竹の葉を刈り敷いてのわび寝であったのでしょう。旅寝の侘しさとそれ故に一層つのる大和恋しさが歌われています。
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