萩原遺跡
笠田の集落から宝来山神社前を過ぎ背山に向かう右側に萩原集落があり、このあたりに南海道萩原駅家が置かれたものと考えられ、小字「木戸口」で発掘調査が実施されましたが駅家の跡は明確でありません。萩原集落以外の笠田集落などに萩原駅家を想定する説もあります。南海道駅家は大宝2年(702)に置かれた賀太駅家が初見です。当時は30里(約16㎞)毎に駅家を配置しており、紀伊国でも都まで駅家が置かれており賀太駅家から30里毎に名草駅家、萩原駅家が置かれたものと見られ距離的には萩原集落付近となります。しかし、萩原駅家は大宝2年には記載がなく、弘仁2年(811)突然、萩原・名草・加太の駅家が廃止されます。都が大和の平城京から山城の平安京へ遷ったのに伴い、南海道のルートが変更されたためと考えられています。