その他, 万葉故地
万葉集の時代は大和国(奈良県)と紀伊国(和歌山県)との境(国境)の山でした。大和からの旅人は、この山を越えると異国に足を踏み入れることになります。懐かしい大和への望郷の念と、未知の国・紀伊国への憧れの思いが交錯する場所でした。8首の歌が詠まれました。中央の頂上部に建物が建っているあたりが真土山の中心部です。
真土山夕越え行きて廬前の角太河原にひとりかも寝む (大意)真土山を夕方に越えて行って、廬前の角太河原で独りで寝ることであろうか。 |
(巻三、二九八、 |
あさもよし紀人羨しも真土山行き来と見らむ紀人羨しも (大意)紀伊国の人は羨ましいよ。なぜかって、行くさ帰るさにいつも真土山を十分に見られるんだもの。羨ましいよ。 ※大宝元年(701)の秋9月に持統太上天皇が紀伊国に御幸なさった時に詠われた歌。 |
(巻一、五五、調首淡海) |
あさもよし紀 (大意)紀伊国へいらっしゃったあなたは、今日真土山を越えておられることでしょう。雨よどうか降らないでおくれ。 ※大宝元年(701)の冬10月に持統太上天皇、文武天皇が紀伊国に御幸なさった時、都に残って留守を守っている家人が詠んだ歌。 |
(巻九、一六八〇) |
後 (大意)家に残されてあなたのことを恋しく思っていますと、今日あたり白雲のたなびく山を越えていらっしゃることでしょう。 |
(巻九、一六八一) |
大君 (大意)天皇様の御幸にお供をして、多くの大宮人と一緒に旅立った、いとしい夫(背の君)は、軽の道から畝傍山を見ながら、憧れの紀伊道に足を踏み入れ、今ごろもう真土山を越えていらっしゃるでしょう、そのあなたは、黄葉の美しく散りまがうのを見ながら、朝夕馴れ親しんだ私のことなどすっかり忘れて、旅はいいものだと楽しんでいらっしゃるだろうと、うすうすはまあ知ってはいますが、だからといってそのまま黙っている気にもなれないので、あなたの後をそのままに追いかけたいとは何度も思うけれど、かよわい女の身ですから、関の番人に尋ねられたその時の、その答えの仕方も分からないので、追いかけて行こうと思って立ち上がっては、また思いくずおれるのです。 ※神亀元年(724)の冬10月に聖武天皇が紀伊国に御幸なさった時に、ある娘子(その御幸の一員に加えられてお供をした役人の恋人)から、その役人に贈る歌の代作を頼まれて、笠金村が作った歌。 |
(巻四、五四三) |
反歌 後 (大意)都に残ってあなたに恋焦がれているくらいなら、いっそ、紀伊国に仲良く並んでいるという、その妹背の山になってしまいたいわ。 |
(巻四、五四四) |
わが背子 (大意)あの人の通られた跡を追いかけて行ったなら、紀伊の関所の番人が私をひき留めるでしょうか |
(巻四、五四五) |
石上 (大意)石上布留の君さまは、手弱女ゆえの惑いによって、馬のように縄をかけられ、鹿のように弓矢で取り囲まれて、大君のご命令をおそれ多くも戴いて、遠い遠い国に流されなさる。いっそ真土山から帰っていらしゃらないものかなあ。 ※石上乙麻呂様が土佐国(高知県)に配流された時の歌。 |
(巻六、一〇一九) |
白たへににほふ真土の山川 (大意)白い布のようにまっ白に照り映える真土、その真土の山を流れる川に、私の乗った馬が行きなづんでいる。家の者が私のことを思っているらしい。 ※「真土の山川」とは、真土山の山裾を流れる川のことで、現在、真土山の西を流れて落合川と呼ばれています。和歌山・奈良両県の県境はここに置かれています。小さな川ですが、当時の人々がこの川を渡るのに難儀をしたであろうことは、この川が紀の川に注ぐあたりまで辿ってみますと、その峡谷の深さに驚き、なるほどと実感できます。この歌では、旅行く私の乗った馬が川を渡ろうとして動かなくなってしまった、それは家に残って帰りを待っている家人が、今私のことを恋しく思っているからだろうと歌っています。 |
(巻七、一一九二) |
橡 (大意)橡の実で染めた衣を解いて洗って、マタ砧でウツという真土山、そのマツチではないがモトツ人(昔なじんだ人)には、やはりしくものはないよ。 |
(巻十二、三〇〇九) |
いで我が駒 (大意)さあ、わが馬よ、その歩みを早めておくれ。真土山を越えて、その山の名のように私を待っているはずの妻のもとに、早く行って逢いたいのだから。 |
(巻十二、三一五四) |
真土山(まつちやま 奈良県五條市上野町~和歌山県橋本市隅田町真土)は、万葉集の時代は大和国(奈良県)と紀伊国(和歌山県)との境(国境)の山でした。大和からの旅人は、この山を越えると異国に足を踏み入れることになります。ですから懐かしい大和への望郷の念と、未知の国・紀伊国への憧れの思いが交錯する場所でした。8首ものたくさんの歌が詠まれました。真土山は、例えば富士山とか名草山(和歌の浦)のように、周囲からくっきりと際立った山容を持ちません。写真は奈良県五條市の犬飼山転法輪寺辺りから撮影したものです。中央の頂上部に建物が建っているあたりが真土山の中心部です。
大意真土山を夕方に越えて行って、廬前の角太河原で独りで寝ることであろうか。
大宝元年辛丑
大意紀伊国の人は羨ましいよ。なぜかって、行くさ帰るさにいつも真土山を十分に見られるんだもの。羨ましいよ。
大宝元年辛丑
大意大宝元年(701)の冬10月に持統太上天皇、文武天皇が紀伊国に御幸なさった時、都に残って留守を守っている家人が詠んだ歌。紀伊国へいらっしゃったあなたは、今日真土山を越えておられることでしょう。
大意雨よどうか降らないでおくれ。家に残されてあなたのことを恋しく思っていますと、今日あたり白雲のたなびく山を越えていらっしゃることでしょう。
神亀元年甲子
大意神亀元年(724)の冬10月に聖武天皇が紀伊国に御幸なさった時に、ある娘子(その御幸の一員に加えられてお供をした役人の恋人)から、その役人に贈る歌の代作を頼まれて、笠金村が作った歌。
天皇様の御幸にお供をして、多くの大宮人と一緒に旅立った、いとしい夫(背の君)は、軽の道から畝傍山を見ながら、憧れの紀伊道に足を踏み入れ、今ごろもう真土山を越えていらっしゃるでしょう、そのあなたは、黄葉の美しく散りまがうのを見ながら、朝夕馴れ親しんだ私のことなどすっかり忘れて、旅はいいものだと楽しんでいらっしゃるだろうと、うすうすはまあ知ってはいますが、だからといってそのまま黙っている気にもなれないので、あなたの後をそのままに追いかけたいとは何度も思うけれど、かよわい女の身ですから、関の番人に尋ねられたその時の、その答えの仕方も分からないので、追いかけて行こうと思って立ち上がっては、また思いくずおれるのです。
大意都に残ってあなたに恋焦がれているくらいなら、いっそ、紀伊国に仲良く二並んでいるという、その妹背の山になってしまいたいわ。あの人の通られた跡を追いかけて行ったなら、紀伊の関所の番人が私をひき留めるでしょうか。
石上乙麻呂卿
大意石上乙麻呂様が土佐国(高知県)に配流された時の歌。石上布留の君さまは、手弱女ゆえの惑いによって、馬のように縄をかけられ、鹿のように弓矢で取り囲まれて、大君のご命令をおそれ多くも戴いて、遠い遠い国に流されなさる。いっそ真土山から帰っていらしゃらないものかなあ。
大意白い布のようにまっ白に照り映える真土、その真土の山を流れる川に、私の乗った馬が行きなづんでいる。家の者が私のことを思っているらしい。※「真土の山川」とは、真土山の山裾を流れる川のことで、現在、真土山の西を流れて落合川と呼ばれています。和歌山・奈良両県の県境はここに置かれています。小さな川ですが、当時の人々がこの川を渡るのに難儀をしたであろうことは、この川が紀の川に注ぐあたりまで辿ってみますと、その峡谷の深さに驚き、なるほどと実感できます。この歌では、旅行く私の乗った馬が川を渡ろうとして動かなくなってしまった、それは家に残って帰りを待っている家人が、今私のことを恋しく思っているからだろうと歌っています。
大意橡の実で染めた衣を解いて洗って、マタ砧でウツという真土山、そのマツチではないがモトツ人(昔なじんだ人)には、やはりしくものはないよ。
大意さあ、わが馬よ、その歩みを早めておくれ。真土山を越えて、その山の名のように私を待っているはずの妻のもとに、早く行って逢いたいのだから。
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