かつらぎ町エリア, 万葉故地
万葉集時代の国境の山・真土山から約25キロほど西に、背山・妹山があります。この山が現在のどの山を指すのかは二説あります。ひとつは紀の川をはさんで両岸に並ぶ、背山(北岸、168メートル)と長者屋敷(南岸、124メートル)との二山をいうという説で現在もほぼ通説として考えられています。ところがもうひとつの新説があります。それは江戸時代に本居内遠(もとおりうちとお、紀州藩に仕えた国学者です)が唱えた説で、紀の川の右岸にある「背山」の二峯をいうという説です。「背山」の名は『日本書紀』にもはっきりと確認できます。大化二年(六四六)の大化改新の詔に出てきます。背山は、現在も「城山」(168メートル)と鉢伏山(163メートル)の2峯からなっています。
当時の南海道が通っていた山沿いの道(現在のR24ではありません)をのんびりとお歩きになりながら、皆さまはどちらに賛成かお考えになってください。万葉の旅がグンと楽しくなるはずです。
では背山・妹山が詠まれた15首の歌を掲げておきます。
これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ勢能山 (大意)これがまあ、都にあって私が見たいと思っていた、紀伊国への道すがらにあるという、有名な背山なのね。 ※勢能山を越ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌 |
(巻一、三五) |
たくひれの懸けまく欲しき妹の名をこの勢能山にかけばいかにあらむ (大意)口に出して呼んでみたい「妹」という名をこの背山につけて、「妹」の山と呼んでみたらどうだろうか。 ※丹比真人笠麻呂、紀伊国に往き、勢能山を越ゆる時に作る歌 |
(巻三、二八五) |
宜しなへ我が背の君が負ひ来にしこの勢能山を妹とは呼ばじ (大意)よい具合に我が背の君が名のってきた「背」という名を持つこの背山を、いまさら「妹」とは呼びますまい。 ※春日蔵首老、即ち和ふる歌 |
(巻三、二八六) |
真木の葉のしなふ勢能山しのはずて我が越え行けば木の葉知りけむ (大意)真木の葉がたわむばかりに心地よく繁る背山を、ゆっくり賞美するいとまもなく私は越えて行く。でも、木の葉は私の気持ちをわかってくれるだろう。 ※小田事の勢能山の歌 |
(巻三、二九一) |
勢能山に黄葉常敷く神岡の山の黄葉は今日か散るらむ (大意)背山には、黄葉が一面に散り敷いている。それなら、懐かしい大和の神岡でも今日あたり黄葉が散っていることであろうか。 ※大宝元年の紀伊国行幸の折の作。 |
(巻九、一六七六) |
後れ居て恋ひつつあらずは紀伊の国の妹背乃山にあらましものを (大意)都に残ってあなたのお帰りを今か今かとお待ちして気を揉んでいるよりは、いっそ紀伊国にある妹背山になれたらよいのに。そうすればいつも一緒に仲良くいられるのに。 ※神亀元年紀伊国行幸の折の作。従駕の人に贈らむために娘子に誂へらへて笠朝臣金村の作る歌 |
(巻四、五四四) |
麻衣着ればなつかし紀伊の国の妹背之山に麻 蒔く我妹 (大意)麻衣を着ると懐かしく思い出されるよ。紀伊国の妹背の山で、麻種を蒔いていたあの娘のことが。 |
(巻七、一一九五、藤原卿) |
紀伊道にこそ妹山ありといへ玉くしげ二上山も 妹こそありけれ (大意)世間では妹山は紀伊路にあると言っているが、気づいて見れば大和のこの二上山にも妹山があったのだ。 |
(巻七、一〇九八) |
勢能山に直に向へる妹之山こと許せやも打橋渡す (大意)背山の真向いにある妹の山は、背山の願いを許したからなのか、二山の間に打橋が渡してあるよ。 |
(巻七、一一九三) |
妹に恋ひ我が越え行けば勢能山の妹に恋ひずてあるがともしさ (大意)都のあの娘を恋しく思いながら背山を越えて行くと、この背山ときたら、「妹」と一緒にいてうれしそうなのがうらやましいよ。 |
(巻七、一二〇八) |
人にあらば母が愛子そあさもよし紀の川の辺の妹与背之山 (大意)これがもし人だったら、母の最愛子だ。あさもよし紀の川のほとりに仲良く並んだ妹と背の山は。 |
(巻七、一二〇九) |
我妹子に我が恋ひ行けばともしくも並び居るかも妹与勢能山 (大意)都に残してきたあの娘のことを恋しく思いながら、紀伊路を歩いていくと、うらやましくも仲むつまじく並んでいることよ。この妹と背の山は。 |
(巻七、一二一〇) |
妹があたり今そ我が行く目のみだに我に見えこそ言問はずとも (大意)私はいま妹山のもとを歩いている。懐かしい家郷の妻よ、せめて顔だけでも私の前に見せておくれ。たとえ言葉までは交わせなくとも。 |
(巻七、一二一一) |
大汝少御神の作らしし妹勢能山を見らくし良しも (大意)大汝と少彦名の神様がおつくりになられた、妹背の山を見るのは良いものだ。 |
(巻七、一二四七、柿本朝臣人麻呂歌集) |
紀伊国の 浜に寄るといふ 鮑玉 拾はむと言ひて 妹乃山 勢能山越えて 行き君 いつ来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕占を 我が問ひしかば 夕占の 我れに告ぐらく 我妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉 求むとぞ 君が来まさぬ 拾ふとぞ 君は来まさぬ 久にあらば いま七日だみ 早くあらば いま二日だみ あらむとぞ 君は聞こしし な恋ひそ我妹 (大意)紀伊国の浜辺にうち寄せるという真珠の玉を拾って来ようと言って、妹山・背山を越えて行かれたあの方はいつ帰って来られるかと、街道筋まで出て立って、夕占で私が判じてみたところ、タ占が私に告げていうには「愛しき女よ、お前が待つあの人は、神の波や岸の波に寄り来る白玉を探していて、帰って来ないのだ。 それを給おうとして帰って来ないのだ。帰りまでおそければ七日ほど、早ければ二日ほどだろう。だからそれほど恋しがるな女よ。」ということでした。 |
(巻十三、三三一八) |
反 歌 直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ |
(巻十三、三三二〇) |
妹山・背山(いものやま・せのやま 伊都郡かつらぎ町)
万葉集時代の国境の山・真土山(【コース1「真土山を越えて」】スポット1「真土山」をご参照ください)から約25キロほど西に、妹山・背山があります。この山が現在のどの山を指すのかは二説あります。ひとつは紀の川をはさんで両岸に並ぶ、背山(北岸、168メートル)と長者屋敷(南岸、124メートル)との二山をいうという説で現在もほぼ通説として考えられています。ところがもうひとつの新説があります。それは江戸時代に本居内遠(もとおりうちとお、紀州藩に仕えた国学者です)が唱えた説で、紀の川の右岸にある「背山」の二峯をいうという説です。「背山」の名は『日本書紀』にもはっきりと確認できます。大化二年(六四六)の大化改新の詔に出てきます。
凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来(兄、此をば制と云ふ)、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。(『日本書紀』大化二年正月一日条)
背山は、現在も「城山」(168メートル)と鉢伏山(163メートル)の2峯からなっています。
さてどちらの説が適切でしょう。歌は創作という面も強いですから、歌に表現されたことがそのまま事実というわけではありませんので断定は出来ませんが、奈良県と大阪府の県境にあります二上山(にじょうざん 万葉時代は「ふたかみやま」として大津皇子のゆかりの山として詠まれています)にしても、筑波山(万葉集中25首詠まれていています)にしても、男の山と女の山が仲良くふた並ぶ2峯をなした山であることを思いますと、背山2峯も捨てがたい説です。当時の南海道が通っていた山沿いの道をのんびりとお歩きになりながら、皆さまはどちらに賛成かお考えになってください。では妹山・背山が詠まれた15首の歌を掲げておきます。
勢能山を越ゆる時に、あへのひめみこ阿閉皇女の作らす歌
大意これがまあ、都にあって私が見たいと思っていた、紀伊国への道すがらにあるという、有名な背山なのね。
丹比真人笠麻呂、紀伊国に往き、勢能山を越ゆる時に作る歌一首(前者)
大意口に出して呼んでみたい「妹」という名をこの背山につけて、「妹」の山と呼んでみたらどうだろうか。
春日蔵首老、即ちこた和ふる歌一首(後者)
大意よい具合に我が背の君が名のってきた「背」という名を持つこの背山を、いまさら「妹」とは呼びますまい。
大宝元年辛丑の冬十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首
大意背山には、黄葉が一面に散り敷いている。それなら、懐かしい大和の神岡でも今日あたり黄葉が散っていることであろうか。
神亀元年甲子の冬の十月に、紀伊国に幸す時に、従駕の人に贈らむために娘子に誂へらへて笠朝臣金村の作る歌一首
大意都に残ってあなたのお帰りを今か今かとお待ちして気を揉んでいるよりは、いっそ紀伊国にある妹背山になれたらよいのに。そうすればいつも一緒に仲良くいられるのに。
大意麻衣を着ると懐かしく思い出されるよ。紀伊国の妹背の山で、麻種を蒔いていたあの娘のことが。
大意世間では妹山は紀伊路にあると言っているが、気づいて見れば大和のこの二上山にも妹山があったのだ。
大意背山の真向いにある妹の山は、背山の願いを許したからなのか、二山の間に打橋が渡してあるよ。
大意都のあの娘を恋しく思いながら背山を越えて行くと、この背山ときたら、「妹」と一緒にいてうれしそうなのがうらやましいよ。
大意)これがもし人だったら、母の最愛子だ。あさもよし紀の川のほとりに仲良く並んだ妹と背の山は。
大意都に残してきたあの娘のことを恋しく思いながら、紀伊路を歩いていくと、うらやましくも仲むつまじく並んでいることよ。この妹と背の山は。
大意私はいま妹山のもとを歩いている。懐かしい家郷の妻よ、せめて顔だけでも私の前に見せておくれ。たとえ言葉までは交わせなくとも。
大意大汝と少彦名の神様がおつくりになられた、妹背の山を見るのは良いものだ。
大意紀伊国の浜辺にうち寄せるという真珠の玉を拾って来ようと言って、妹山・背山を越えて行かれたあの方はいつ帰って来られるかと、街道筋まで出て立って、夕占で私が判じてみたところ・・・・・・
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